読み終わったその時から、もう一度ページを開く。
私はそんな一冊と出逢いました。タイトルは『嫌われる勇気』。私の周りでも読んでいる人が多く、ブロガーのはしくれとしては気になって仕方なかった本です。
フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーの思想がまとめられた内容。形式としては、アドラーの考え方を持論とする哲学者と、その考え方に疑問を抱く青年との対話といったもの。この青年がまぁ言うわ言うわ、目上の人に対して言いたいことをズバズバ言うのですが、哲学者を論破することは出来ないのです。
そんな二人のやりとりも大いに面白いトコですが、この本の魅力はやはりアドラーの考え方。何度も何度も読み込んで、自分自身の一部とすべく頭に叩き込みました。今回はその中でも、胸に突き刺さった言葉10選を厳選してお届けします!
再びアドラーの言葉を引用しましょう。彼はいいます。「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と。(p.44)
これはよく言われることですが、大切ですよね。不足を数えるとキリがありませんので。◯◯さんのように背が高くて頭が良ければ・・・なんて思っても始まりません。「他の誰か」を基準にするのではなく、「自分自身」をどうしたいか、という話です。
アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ”勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。(p.53)
今の自分は不幸だと感じている。ならばそのままで良いはずがありません。よって、変わらなければならない。しかし、変わることは苦労を伴うかもしれないし、ライフスタイルだって変える必要があるかもしれない。となると、多少の不便はあっても変わらずにいる方が安心なのです。変わる勇気がなければ、今の自分は変わらないままです。
何度でもくり返しましょう。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。もし、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう。(p.71)
かなり極端な言い方かと思いましたが、自身を振り返ってみると確かに的を得ています。何をやるにせよ、他者からの賞賛や叱責が気になって仕方ない自分がいます。宇宙のなかでただひとりだとしたら、悩みなど生まれようがないでしょう。その代わり、喜びも何もないかとは思いますが。
ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。(p.135)
この言葉を読んだ時、私の中に雷鳴が響き渡りました。自分のために、自分の人生を生きる。当たり前に見えて、ずいぶん長い間忘れていたんだな、と。他者の顔色をうかがい、期待に応えるべく四苦八苦する。しかし、それで自分の人生を生きたとは言えないでしょう。
自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。(p.147)
シンプルながらも大切にしたい言葉です。他者からの評価は他者が決めることで、自分にはどうすることも出来ない。そのどうすることも出来ないものを、どうにかしようとするから悩みが生まれるのでしょう。
なんで評価されないんだろ、なんて考えるとき。そもそも自分は最善を尽くしているのかと問うべきです。他者ではなく、自身に焦点を当てること。よく言う「結果は後から付いてくる」というのは至極名言だと思います。
すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。(p.162)
これは来ましたね。タイトルにもなっている「嫌われる勇気」というやつです。他者の目を気にかけず、自分の人生を生きる―大いに格好良いことでしょう。ところが、代償として、誰かから嫌われることもあります。自分の生き方を貫いたとき、それが気に食わないという他者も存在するのです。
しかし、他者すべてに良い顔をしつつ、自由を享受することは不可能です。自由になろうと思うなら、嫌われる勇気を持つこと。ぜひ覚えておきたい言葉です。
「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。(p.188)
アドラーの思想において、「共同体感覚」という概念があります。これは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを指します。ここで大切なのは、自分は共同体の一部であって、中心ではないこと。共同体に対し、自らが積極的に関与していかなければ、自分の居場所があるとは感じられないのです。
だからこそ、自身への執着から他人への関心に切り替え、「なにを与えられるか?」という考え方を大切にします。対人関係におけるゴールがここにあるのです。
もうあなたもお気づきですよね?すなわち「幸福とは、貢献感である。」それは幸福の定義です。(p.253)
この言葉に出逢ったとき、「ああ、読んで良かったな」としみじみ思ったものです。以前は、「幸福とは何か?なんて答えが出ないし、出すものでもない」と考えていました。しかしアドラーはとてつもなくシンプルな解答を導き出していたという・・・。
最初はそのシンプルさゆえ、反発する気持ちがありました。しかし、人生を振り返ったとき、どんなときに幸せを感じていたかといえば、「役に立った」と感じたときだったのです。もちろん、プレステやってる時とかメシ食ってるときとか、幸せには違いありませんが、より深い幸せを感じたのは他者への貢献でした。
補足として、ここでいう「貢献」とはあくまで主観的なものです。他者にとって本当に貢献できたかどうか、それを決めるのはあくまで他者なのです。共同体感覚を持ち、自身が所属する世界において「貢献感」を持つ。これが幸せだと定義したのです。
人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。(p.266)
「連続する刹那」という考え方に、初めて触れました。本でも述べられていましたが、私は人生を「登山」にたとえていました。道を登りつめていき、やがて山頂にたどり着くんだと。しかしこの場合、山頂にたどり着けなければ、人生は失敗ということになりかねません。
そうではなく、「いま、ここ」の連続なのだと。過去や未来には決して生きることは出来ない。出来るのは「いま、ここ」に焦点を当て、最善を尽くすことなのです。
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。(p.275)
ごく控えめに言って、胸がえぐられました。過去を悔やみ、遠い未来を夢見る私の姿そのものだったからです。もはや逃げも隠れもしません。「いま、ここ」に生きる。共同体感覚、貢献感とともに決して私の頭から離れない考え方となりました。
恐ろしい本です。自分が目を背けてきたことに対し、現実を突きつけられるようでした。共同体へのコミットなんかは特にそうでしょう。しかし、それでもなお読み返さずにはいられない。一文一文が自身の血肉となるよう、読み込んでいくつもりです。
余談ですが、読みながら付せんを貼り、ブログを書きながら付せん貼っていったら上のようになってしまいました。ちょっと剥がして整理してから読み直します(;´д`)トホホ…